徳島県立
阿波十郎兵衛屋敷


阿波人形浄瑠璃の拠点で伝統芸能の素晴らしさお楽しみください。人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」は、一六九八年に罪状も明らかにされないまま藩の政策上の犠牲となって処刑された庄屋、坂東十郎兵衛の名を借りて、お家騒動の物語に仕立てたものと言われてます。阿波十郎兵衛の屋敷跡であり、「傾城阿波の鳴門」ゆかりの場所なのです。阿波十郎兵衛屋敷では、国の重要無形民族文化財「阿波浄瑠璃」を毎日上演しています。また、展示室では、阿波人形浄瑠璃の特色や木偶人形の展示をご覧いただけます。
阿波十郎兵衛屋敷について
史実と創作、二つのドラマを秘めた場所
阿波十郎兵衛屋敷を語る時、そこには二人の十郎兵衛が登場します。
まずは、人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)」に登場する架空の人物、阿波の十郎兵衛。
盗まれた主君の刀を探すため盗賊に身をやつした十郎兵衛は、金欲しさに娘と知らずお鶴を殺してしまいます。
しかしお鶴の所持していた手紙から刀を盗んだ犯人がわかり、事件は解決するという話です。
娘を手にかけてしまった哀れな父親、阿波の十郎兵衛が一人めの十郎兵衛です。
そしてもう一人の十郎兵衛は、実在の人物、板東十郎兵衛。
徳川家綱の時代、他国米(肥後米)輸入の監視役を務めていた十郎兵衛と輸送する船頭との間でいさかいが起こります。
肥後米の一俵と阿波の一俵は換算が違うため、船頭が差額の米を収入にすることができました。しかし十郎兵衛はそれを認めません。
この一件が他国米輸入を認めない幕府の耳に入れば、25万7千石の徳島藩の浮沈にかかわります。
そこで十郎兵衛一人の責任にして罪状も明らかにされないまま元禄11(1698)年に処刑されてしまいました。
処刑から70年後、彼の悲運を元に創作されたのが「傾城阿波の鳴門」です。
つまり阿波十郎兵衛屋敷は板東十郎兵衛の屋敷跡であり、「傾城阿波の鳴門」ゆかりの地でもあります。
館内には、かつて神社の境内によく見られた農村舞台を模した舞台と観客席があり、阿波人形浄瑠璃を毎日上演しています。
また木偶(でこ)人形や人形浄瑠璃の衣装などの資料も充実しているほか、人形の動かし方や大夫、三味線など演者の役割についても学んでいただけます。

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